Background of activities
History.
NPO法人 「森は海の恋人」の誕生と
これまでの活動の経緯
豊な天然の良港
「気仙沼(けせんぬま)」
気仙沼湾は三陸リアス式海岸の中央に位置する波静かな天恵の良湾です。
古くから近海、遠洋漁業の基地として有名です。特にカツオの水揚げは日本一を誇っています。
波静かな入り江は養殖漁場としても優れていて、江戸時代からノリ、大正時代からはカキ、近頃はワカメやホタテなどの養殖も盛んです。
自然環境の汚染と影響
昭和40年~50代にかけて気仙沼湾の環境が悪化してきました。
赤潮が発生し湾内はまるで醤油を流したような茶色の海となったのです。
1個のカキは、呼吸のために1日200リットルもの海水を吸っています。水と一緒に吸い込んだプランクトンがカキの餌なのです。
プロロセントラルミカンスという赤潮プランクトンを吸ったカキの身が赤くなり「血カキ」と名付けられたのです。全く売り物にならず廃棄処分されました。
『牡蠣の森を慕う会』の結成、活動の始まり
牡蠣の漁場は世界中、川が海に注ぐ汽水域に形成されています。川が運ぶ森の養分がカキの餌となる植物プランクトンを育んでいるからです。
そこで、川の流域に暮らす人々と、価値観を共有しなければ、きれいな海は帰ってこないことを悟りました。
―大川上流の室根山に自然界の母である落葉広葉樹の森を創ろう―
そして、集まった仲間で「牡蠣の森を慕う会」が作られたのです。
歌人 熊谷龍子さんとの出会い
大川中流域に暮らす歌人の熊谷龍子[1]*さんとの出会いにより、「森は海の恋人」という標題も生まれました。
こうして、平成元年から植樹祭が続けられ、これまで約3万本の落葉広葉樹の植樹が行われました。
また、川の流域に暮らす子供たちへの環境教育の重要性を感じ、平成2年から体験学習を開始しました。
今まで招いた子供たちは、1万人を超えます。
[1]・・・熊谷龍子(くまがい りゅうこ、1943年7月7日 - )は、日本の歌人。宮城県気仙沼市出身。
全国への広がり
森は海の恋人運動は、小・中学校の教科書でも取り上げられ、全国に拡がっています。
従来の学問では、縦割で世界を捉えており、森・川・海は別々の範畴に置かれていましたが、平成16年から京都大学が京都大学フィールド科学教育センターという組織をつくり、森里海連環学という新しい概念の学問を起こしました。
森は海の恋人という言葉がそのヒントになったということです。
NPO法人 「森は海の恋人」
設立へ
平成21年、「森は海の恋人」運動は新しい局面を迎えました。
「牡蠣の森を慕う会」は結成以来、多くの方々にこの活動を知って頂くことを目的とし、活動してまいりました。その目的は、まずは十分に果たすことができたと感じています。
しかし他方で、この活動の継続と発展を望まれる声を大変多く頂戴してきたにも関わらず、現状の維持が精一杯という状況もあり、積極的に対応してくことが出来ていませんでした。
そこで、平成21年5月11日、この活動に対して年々高まっている社会のニーズに対応し、次世代での再出発と新たな展開を意図して特定非営利活動法人(NPO)の設立に至りました。
私たちの活動
NPO法人 「森は海の恋人」は、豊かな自然環境の中で人と自然のつながりを体験的に学習できる環境教育を主軸に、森づくり、自然環境保全といった3分野の事業を展開する団体として活動しています。
環境教育事業では、次世代を担う子ども達のための宿泊型体験学習(『森は海の恋人子どもスクール』)などを実施し、多くの子ども達に自然を感じ、自然を知る機会を提供しています。
またこうした素晴らしい自然環境を未来の子供たちに手渡していくことを目的に、自然環境保全事業として各種の自然環境調査を行い、その結果をもとに自然と共生するまちづくりについて提言を行っています。
未来へ向けてー
2011年3月11日 東日本大震災以降、地域の状況は一変しました。
巨大津波の直後、生き物は消え、海は死んだものと皆が思いました。
しかし今、多くの生き物たちが大変な勢いで戻り始めています。
こうした生き物の力強さと、全国の皆様からのご支援に支えられ、
NPO法人 「森は海の恋人」は、事業を再開することができました。
わずかばかりではありますが、体験学習も少しづつ再開しています。
あれほどの被害からも立ち直ることのできる生き物たちの強さと尊さを子ども達に伝えるとともに、地域の方たちと協力し、多くの専門家のご協力を得ながら、新たな地域づくりにも取り組んでいきたいと考えています。
これからも皆様の引き続きのご支援、ご協力をお願い申し上げます!